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「脱力お国自慢」コラム

「嫌悪伝説」なんかブッ飛ばせ!<Part2>

第2+第5研究部会 松本壮平

 わが故郷・大分中津を活性化し、知名度ある観光地にするにはどうすればよいか、ということで書き始めたコラムであるが、前回に引き続き、中津市民の積年のコンプレックスを払拭せんがための内容でお届けする。
“福澤諭吉に嫌われていた・捨てられた”というコンプレックスの源泉「福澤の中津嫌悪伝説」。これを構成する3大ファクターのうち、「山国橋」「唾」の2つは前回のコラムで叩きのめした。残るは「嫌悪」ただ一つである!嫌っていた、という事実を否定するのは正直、面倒なので、逆に“福澤諭吉は中津に愛着を抱いていた”という事実を証明することで、それに代えることとする。

(1)帰省の回数が多すぎる!
長崎留学に際し、中津に向かって唾を吐いたという割に、福澤は結構中津に帰省している。わかっているだけで7回。これが多いか少ないかは問題ではない。そんなにイヤなら帰って来なきゃいいものを!帰って来るってことはやはり、心の片隅に故郷を想う気持ちがあったのだ!

(2)中津に学校を作った!
1871(明治4)年に中津に設立された「中津市校」。中津在住の士族や町人・農民など、出自に関係なく、広く中津の人々に学問の機会を提供したこの学校、実は福澤の提案によるものであった!「唾を吐いて出て行くほど嫌っていた」と言われる福澤だが、中津の学問水準を向上させたかったのだ。彼の心中は恐らく次の一言に集約されるであろう。「中津をどげかせないかん!」。

(3)「天は人の…」はなんと!
福澤の著作の中で最も有名な『学問のすすめ』。冒頭の「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと云へり」はあまりにも有名だが、この著作は実は前述の「中津市校」の開校を祝して起草されたもの。しかもテキストとして使用することが当初の目的だったのだ。それが意外に評判がよかったので、一般向けの出版に踏み切ったのである。冒頭の一文は中津の人々へ向けて書かれたものだ!これは誇りに思っていいぞ!

(4)競秀峰をなぜ…!
中津からほど近い耶馬渓は景勝地として知られている。秋は紅葉がスバラシイ!この耶馬渓の第一の名勝と呼ばれる“競秀峰(きょうしゅうほう)”が競売にかけられているのを1894(明治27)年、墓参で帰省した福澤が発見!「こんな美しい景勝が宅地開発の餌食にでもされたら…!」と憂いた福澤が私財を投じて購入。現在も美しい景観をとどめている。環境保護か?単なる道楽か?はたまた福澤の郷愁か?“競秀峰”だけに郷愁が正解!

(5)多くの中津人を引き取った!
1858(安政5)年に福澤が始めた中津藩の蘭学塾(のちの慶應義塾)に、多くの中津士族の子弟を呼び寄せて学ばせている。しかもわざわざ福澤自身が中津まで出向いて、説得して連れて行っている。面倒見のいい福澤だが、彼が自らここまでした例はほとんどない。さらに廃藩置県の後は、中津藩最後の藩主、奥平昌邁までをも引き取って!ちなみにこれは前述の(2)(3)につながるのだが、昌邁は福澤のもとで学んだ後、中津に帰って「中津市校」の設立に尽力する。昌邁はそこで使用するテキストの執筆を福澤に依頼、『学問のすすめ』が出来上がったというわけだ!

 つらつらと書いたが兎に角、「福澤の中津嫌悪伝説」なんてウソっぱちなんだから、気にする必要はないということだ。こんなことで二の足を踏んでたら町おこしもできやしない。嫌われていたんじゃない!むしろずっと想われ続けていたのだ!がんばろう中津!
さて、4回にわたってお届けした「脱力お国自慢」コラム、実はこれで終了である。次はもっとまともなテーマで書きたい。今回のテーマはあまりにマニアックすぎていたと、私自身、深く反省している。文字通り、脱力感をおぼえた読者もおられよう。そんな読者諸氏に、ここでお詫び申し上げる次第である。申訳御座無候。

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